九州の社窓から

サラリーマン 兼 投資家 兼 ブロガーの転勤を機に始まった九州と東京のデュアルライフを綴っています。投資、働き方、旅など気の向くままに。

「何か」を得るということはそのまんま「何か」を失うということ

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最近、投資アフィリとか投資マルチとか投資の周りでブンブン飛んでるハエが「投資家」を名乗っていて腹立たしいことこの上ないわけですが、その辺も含めて投資というワードに感情を持ってしまうあたり、僕もまだまだ甘いですね。

 

気づいたら株歴2年を迎えておりました、投資家ブロガーのマエダユウタです。

月並みですが、「長いようで短かった」この期間。

その中で得た気付きを記したいと思います。

 

得るために失うということ。

 

僕から見て、「成功している」方が多く口にすること。

 

何かを得るには何かを失わなければならない。

 

僕は何かを失うほど何かを得てもいないので、まだハッキリと実感しているわけではありませんが、知らず知らずの内に失っているものはあるでしょう。理屈の上では理解できます。

 

極端に単純化するなら、就活でどこかの会社の内定を受諾するということは、他の会社に新卒で入社する権利を失うということ。

誰かと結婚し家庭をもつことは、原則は他の誰かと恋愛する権利を失うということ。

 

そんなかんじでしょうか?

得たいもの全てが得られるようには出来ておりません。

 

得ることで「自動的に」失うもの

 

今挙げた例は、ある種「必然的に」失ってはいるものの、何かを選び取るという選択の中で、消去法として失ったもの。

それ以上に当然に、自動的に、僕たちは得ることによって失って行きます。

 

例えば、僕は投資歴2年という実績を「得」ました。それは、まだまだ初心者の域を出ないにせよ、入門者ではない認知はされているはず。

外形的な信用だけでなく、人前で初めてお金を頂いて話した、半年ちょっとの時より、スクールを開校した1年ちょっとの時より、時間の分だけ経験し、成長しています。

 

一方で、投資歴2年を迎えてしまうことより、僕は「投資歴2年未満に関わらず」金額はさておきパーセンテージでいうとそれなりの実績を出し、そのプロセスを体系化し、コンテンツとしてビジネスを仕上げ、そちらでもそれなりの実績を持つ、というステータスを失ったわけです。

ある意味免罪符的なステータスをね。

 

「N年」も「それなり」も感覚値ではあるものの、個人的には「まだデビューしたてだから」「それなりで許される」時期は終わったのかな、という感覚でおります。

再度覚悟を決めないと。

 

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ついでにもう1つ。

そういった実績もあり、僕のプレゼンテーションの能力は現在ある程度高い水準にあると思います。

 

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かつて超絶コミュ障だったことを思うと、伸び率で言えば投資よりもこちらの方で成果が出ているといえる。

場数や努力がそれを克服させてくれたともいえるし、また、元々持っていた素質を自分で殺してしまっていたのが再度花開いた面もあるかと思います。

(小学校の頃ディベート最凶だったのにいつの間にか喋れなくなってたw)

 

勿論それ自体は好ましいことではあるのですが、それにより、かつてたどたどしい喋りで口にしていた「喋りが下手でも説得力を持つことは出来る」という持論の説得力が薄れています。

喋りが下手だったからこそ説得力を持っていた武器を失ったわけです。

 

前進で失ったものを悔いても仕方がない。

とはいったって、投資歴はあるに越したことはないし、プレゼンにおいて喋りが上手い必要などない、という信念は譲りませんが、言うまでもなく上手いに越したことはない。

歴が浅いとか、喋りが上手くないとかは、ある意味「弱者の戦略」であるわけで、それはそれで立派なものではあるけれど、それを失うことは前進。

失ったものを取り戻すことは大概のケースにおいて出来ないのだから、失う代わりに得た武器で戦うしかない。

 

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